『聖武天皇と紫香楽宮』
栄原 永遠男
聖武天皇はなぜ次々に都を代えたのか?大仏建立が企画された紫香楽宮を中心に、混乱の時代を描く。
聖武天皇が紫香楽宮に遷都し、盧舎那仏を造ろうとした。その真の理由とは?
◉関東行幸と恭仁宮
◉恭仁宮の造営
◉宮町遺跡の発掘調査
◉年紀木簡が語ること――紫香楽宮の造営過程――
◉内裏野地区の発掘調査と甲賀寺
◉正倉院文書と紫香楽宮
◉恭仁宮・紫香楽宮・難波宮・平城宮
◉紫香楽宮をどう位置づけるか
<「混乱」と「彷徨」の時代は描けたか>
【何を書こうとしたか】
天平一二年(七四〇)から一七年にかけてのわずか五年余の間に、つぎつぎと起った事態をどうとらえるか。本書は、この点を描くことに照準を定めた。
藤原広嗣の大反乱がおこり、それと前後して大規模な行幸が準備され、強行された。恭仁宮・紫香楽宮の造営が進められ、盧舎那大仏・甲賀寺の造営があいついだ。都も平城宮・恭仁宮・難波宮・紫香楽宮・平城宮と目まぐるしく入れかわった。
これはまさしく「混乱」の時代と言ってよい。聖武天皇の「彷徨」といわれるのは、ある意味でもっともなことだ。しかし、本当に「混乱」で「彷徨」だったのか。
私は、この時期を一括して、「混乱」だ「彷徨」だ、いやそうではない、などということには、あまり意味がないのではないかと思っている。
人間とは複雑な存在で、政治の動きも単純ではない。混乱もすれば、冷静に計算もする。思い通りにいくこともあれば、そうでないことも多い。
その総体としてこの時代があるはずだ。それを描くのが、昔からの私の願いであった。混乱しているのだからわからない、と言って投げださずに、理解可能な過程としてとらえることを心がけて本書を書こうと思った。
【書けなかったこと】
本書であつかうことができたのは、ごく短期間にすぎない。その前後には、歴史の流れがつづいている。
いま私が危惧しているのは、本書が対象とした時代を、前後の時代に位置づけられなかったことだ。これは、結局はこの時代が特殊だと言っているのと同じである。「混乱」と「彷徨」の時代だとしているに等しい。
つまり、紫香楽宮の大仏造顕は挫折し、聖武天皇は夢破れて平城宮にもどった、ということになる。
これは、その通りであるが、その通りではない。紫香楽だけをみれば、大仏や甲賀寺はできなかったし、紫香楽宮は放棄されたに等しい。しかし、大仏と東大寺は完成したし、聖武天皇の治世は平城宮でつづいていく。
このことを本書では、平城還都を、盧舎那大仏の造顕構想と国分寺建立構想の結合としてとらえてみた。
しかし、盧舎那大仏と国分寺が、どのような歴史的文脈から出てきたのか、どうしてこの五年余のような事態が起きたのか、ついに本書ではふれることさえできなかった。
【これからの課題】
本書は、ほとんど紫香楽宮の時代に終始した。現段階では、まずそれをしなければならなかったからだ。しかし、この時代を本当に理解するには、この時代だけみているのではむずかしいことは当然だ。
そのためには、より広い視野で奈良時代を見通さなければならない、と言うことは誰にでもわかる。私もわかっているつもりだ。最大の問題は、もちろん私の力量なのだ。今後、精進して、この時代を奈良時代史に位置づけたい。
●栄原 永遠男(さかえはら・とわお)
1946年、東京生まれ。京都大 学文学部卒業。専攻は日本古代史。大阪市立大学名誉教授。木簡学会会長、東大寺史研究所所長。 第16回角川源義賞(国史学部門)受賞。