『古墳からみた 倭国の形成と展開』
白石 太一郎
邪馬台国はどこか?3世紀から7世紀にいたる古代国家形成の歩みと特質を古墳研究の最新成果から探る。
◉第1講 農耕社会の形成と原生国家の成立
◉第2講 倭国の誕生はいつか
◉第3講 邪馬台国の時代
◉第4講 初期ヤマト政権の成立
◉第5講 古市・百舌鳥古墳群の成立
◉第6講 ヤマト政権の変質
◉第7講 古代国家への道
<和辻哲郎の疑問>
夏目漱石門下で、大正から昭和初期の倫理学者であり、すぐれた思想家でもあった和辻哲郎は、『古寺巡礼』や『風土』の著者としてよく知られている。彼は、飛鳥・奈良時代のすぐれた建築や彫刻、さらに『古事記』などのすぐれた文芸を残した上代の日本人とは一体何者であったのだろうかという、強い疑問から『日本古代文化』と題する興味深い著書をのこしている。
私自身にとっても『古寺巡礼』とともにこの『日本古代文化』は、高校時代以来の愛読書で、強い影響を受けたものである。
昭和一四年に岩波書店から出された本書の「手入れをした第二版」では、大正期から昭和初期にかけて著しく進展した古代史や考古学の新しい研究成果をも踏まえて、日本の古代国家や古代文化の形成過程を考察している。そのなかでの和辻の大きな疑問のひとつは、三世紀以降の大和を中心とする国家や文化は、弥生時代の近畿の銅鐸文化とはどうしても結びつかない。むしろ筑紫中心の北部九州の銅矛銅剣文化と結びつくものと考えるほかないのではないか、というものであった。
和辻のいう銅矛銅剣文化は、その後の研究成果からは銅剣はむしろ瀬戸内に分布の中心があることが明らかにされているから、銅矛銅戈文化とでも呼びかえなければならない。
ただ、後のヤマト王権の遺した古墳の遺物などには、確かに北部九州系の要素が濃密に含まれており、大和の弥生文化の伝統を受け継ぐものはそれほど明確ではない。
このことから和辻は、記紀の神武東征話などは歴史的事実ではないとしても、「建国の当事者が西の国から来た」という「建国の最も簡単な輪郭」が伝えられているものと考えたのである。
和辻は三世紀前半の段階には政治の中心は大和に移っていたと考えたから、邪馬台国九州説ではない。ただ少なくとも二世紀やそれ以前の段階で、中国鏡の受入れをはじめ文化一般や技術レベルで比較すると、当時の北部九州と近畿の間には格段の差があったことは疑いない。それにもかかわらず、三世紀中葉以降のヤマト政権とよばれる政治連合が大和を中心に形成されたことは、疑いのない歴史的事実である。
なぜ、三世紀になると後進的な畿内を中心に、ヤマト政権とよばれる広域の政治連合が形成されることになったのかは大きな疑問である。この点について私は、鉄資源をはじめとする先進文物の入手ルートの支配権をめぐる争いが、この広域政治連合形成の契機になったのではないかというひとつの仮説を提起している。
この仮説については、最近は旗色が悪い。私もこの和辻が提起した疑問について、納得できる仮説が提起されれば、私説などいつ撤回してもよいと考えている。ただ、今のところそうした仮説にはお目にかかれない。
『私の最新講義』では、この問題に関する私の現在の考え方を整理しておいた。お読みいただいて、皆さんそれぞれでお考えいただければ幸いである。
●白石 太一郎(しらいし・たいちろう)
大阪府立近つ飛鳥博物館長、国立歴史民俗博物館名誉教授。 1938年、大阪市生まれ。専門は日本考古学。考古学から日本の古代国家や古代文化の形成過程を追究。