『縄文人の生活世界』

安斎 正人


定 価: 2,640円
発売日: 2015年05月19日
判型/頁: 四六判 上製 320頁
ISBN: 9784906822164

縄文人は、何度もあった大冷涼期(ボンド・イベント) にどのように対応し、いかに生き延びたのか?

◉縄文とはどんな時代か
◉大きく変わる縄文観
◉過剰デザインの石斧
◉縄文海進
◉退役狩猟者(エリート)層
◉地域集団の繁栄
◉過剰デザインの土器・土偶
◉生活世界の大転換
◉北方漁猟民
◉縄文から弥生へ

<『縄文人の生活世界』の執筆にあたって>

 二〇一一年三月一一日の東日本大震災から大きな衝撃を受けた。テレビの映像を毎日声もなく見つづけた。現場で力をふるうさまざまな職業の専門家たちの姿を凝視しながら、考古学者として無力をかみしめた。
 考古学とは読んで字のごとく、「古」を、しかも百年・千年、あるいは万年の時間単位で考える学問である。ただし考える主体である私たちは、現在に生きている。だから考古学は「考現学」でもあるべきだというのが、私が四半世紀主張してきた「理論考古学」の理念でもある。
 人間の進化史が明らかにしたことは、絶滅寸前に至るほどの大きな自然災害をこうむり、多大な犠牲を強いる人為災害を引き起こしながらも、そのつど知恵を働かせ、技能を高めて被災を乗り越え、復興・前進してきた過程だと言える。「災害考古学」の可能性を視野に入れて、『気候変動の考古学』をその年の九月に出版した。
 この列島においても、約三万年前の鹿児島県姶良カルデラの大爆発では、少なくとも九州の住民はほぼ全滅したと考えられる。
 約一万四五〇〇年前にはじまった急激な温暖化に伴う海面の上昇(縄文海進)で、七〇〇〇年前ごろには関東平野などの低地部が水没してしまった。一五〇〇年間繁栄を享受したと言われる青森県三内丸山遺跡から縄文人の姿が消えてしまったのは、気候の冷涼化が主因だとみられる。
 更新世の寒冷な気候から完新世の温暖な気候に変化したとき、南九州の縄文人たちはいち早く大きな定住集落を形成していたが、その文化伝統の息の根を止めたのも、海底火山の大爆発であった。
 縄文人は自然と調和したエコな人びとであった、こんな楽天的な縄文観がバブル経済期に一時流布したが、それは温暖期の植物性食料が豊富なときの話であって、縄文人の生活世界の一面でしかない。縄文人も私たち現代人同様、エコ・システム(自然環境との関係)とソーシャル・システム(社会環境との関係)の中で生活していた。
 というよりも、採集猟漁民であった縄文人の生活世界は現代人の生活世界と違って自然の中で、自然の変化に対応して構築されていた。
近年、古気候学の研究で、縄文人が依拠していた自然環境を大きく変えた、グローバルな気候の冷涼化(「ボンド・イベント」と呼ばれる)が縄文時代に何回も起こっていたことがわかった。 他方、年代測定の分野でも、縄文土器の年代を二〇年くらいの誤差で測定できるようになっている。そこで気候変動の年代と縄文土器の年代とのマッチングが可能になった。
 更新世末の約五〇〇〇年間(約一万六五〇〇~一万一六〇〇年前)の寒・暖・寒の気候変化、およびボンド・イベント(約八二〇〇年前、五八〇〇年前、四三〇〇年前、二八〇〇年前を寒気のピークとする冷涼化と急激なその回復現象)の年代と、縄文土器の暦年較正年代とを対比してみると、草創期は縄文時代の形成過程(移行期)として、早期末・前期初頭、前期末、中期末・後期初頭、晩期末がそれぞれ先行文化・社会システムの崩壊と新システムの形成の時期として捉えられる。
 縄文人の生活世界の安定と変化のパターンが気候変動に連動していたことが分かってきた。

●安斎正人(あんざい・まさひと)

1945年、旧満州生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。東北芸術工科大学東北文化研究センター教授。縄文文化の変化と気候変動との関連を考えてきた。

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